yoshi-yoshigu9924’s diary

主にスポーツ、ファッション、をブラジルと日本のハーフ目線でいろいろものを記載していきます!!!暖かい目で見ていただければ幸いです。

ラッパー、詩人、革命家...HIPHOP界のレジェンド"2pac"真実の物語。

 

Rapper Tupac Shakur poses for a portrait at Club Amazon on July 23, 1993 in New York

今は亡き2pac彼の壮大な人生そして真実の物語りを見ていこう

本名:トゥパック・アマル・シャクール

 1971年6月16日 1996年9月13日

アメリカ合衆国ヒップホップMC俳優

名の「トゥパック・アマル」は、古代インカ語で「輝ける龍」の意味(インカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマルと、彼の2代目を自称し反乱を起こしたホセ・ガブリエル・コンドルカンキトゥパク・アマル2世)の名前から)

NYのスラムで生まれ育った2PAC。ブラック・パンサー党員の母に連れられ、住まいを転々とし、17歳の時カリフォルニアに移り住む。その頃、母親はドラッグ中毒で家庭は酷い有様と化していた。そんな彼はラッパーとなる夢を追い続け、2PACの名でソロデビューを果たし、着々とその名を上げていく。 だがある日、レコーディング・スタジオで強盗に襲われ、被弾。一命を取り留めたが、この事件を仕組んだのは、東海岸のBad Boyレコードに所属するショーン“パフィ"コムズとノトーリアスB.I.G.だと思い込む。西海岸のDeath Rowレコードに所属する2PACは事あるごとに彼らを非難し、ヒップホップ界史上最悪の東西抗争が幕を開けてしまう。そして遂に、2PACはラスベガスで2度目の銃弾を浴びる…。 

東西抗争

東西抗争 

東はLAなどの東海岸のことを指します。

西はNYなどの西海岸のことを指します。    

  

そして東西抗争はHIOHOP界で最も悲惨な出来事と言っても過言ではないです。ではその中身や始まりを見ていきましょう。

最初の銃撃事件

94年11月30日。ここからが東西抗争(バット・ボーイ VS デス・ロウ)の始まりである。2PACは上記、93年11月のレイプ事件を法廷で問われている最中だった。彼はリトルショーンのレコーディングに参加する為、ニューヨーク・タイムズ・スクエアのクアッド・レコーディング・スタジオを訪れていた。そのスタジオの2階には、バット・ボーイの”ビギー・スモール”と”パフ・ダディ”が別の部屋を借りており、レコーディングを行っていた。突然、2PACはエレベーター付近で、武装した2人組に襲撃され、銃弾5発をくらった。そして4万ドル相当のジュエリーを盗まれた。(なんと1発は頭をかすったという)彼は、病院を強引に退院し、翌日、以前のレイプの件で、マンハッタンの法廷に車椅子で現れた。そんな痛々しい姿でも法廷は厳しく、有罪を言い渡し、1年半から4年半の禁固刑となった。そして、ニューヨークの刑務所に護送される間に、銃撃はバット・ボーイ・レーベルの仕業ではないかと思い始める。2PACの投獄中に、デス・ロウ・レコードの最高責任者、マリオン・シュグ・ナイトが行動に出る。ニューヨークとは正反対のカルフォルニア州から何度も面会に訪れ、デス・ロウ・レコードへの移籍の話を持ちかけた。そんなシュグ・ナイトの熱意が伝わり、2PACは140万ドルの保釈金で釈放され、インターン・スコープからデス・ロウへ移籍した。

 

2Pacは5発の銃弾を浴び重症を負ったが、1日もたたずに勝手に退院した。
 

抗争を激化させた2つの出来事

ニューヨークのヒップホップファンは、西海岸のヒップホップに対して厳しい顔をする人は多かったが、そこまで激化しているわけではなかった。しかし1994年と1995年に起こった2つの出来事によりヒップホップの歴史が変わることになる。

そのうちの一つは1994年に2Pacがニューヨークのスタジオで銃撃/強盗されたことであった。

Notorious B.I.G.とP. Diddyは彼が襲撃されることを知っていたとの噂もあり、2Pacは強盗を2人の差し金と考えたのである。さらに彼の予想に付け足すようにビギーが直後に「Who Shot Ya?(誰がお前を撃った?)」という曲をリリースしたのが2Pacにとって決め手となった。ビギーとP. Diddyは「あの曲は2Pacが襲撃される前に既にレコーディングをしていた曲だ」と弁解したが、2Pacはそれを信じられなかった。内容が完全に銃撃された2Pacをディスしているような内容であったのだ。

2Pacもニューヨーク生まれとして、真偽はどうであれ元々仲が良かったビギーに攻撃され、5発も撃たれたのが相当ショックだったのだろう。その後、個人単位ではなく、他のアーティストも巻き込むほど悪化する出来事がもう一つあった。

それはデス・ロウCEOシュグ・ナイトの問題発言である

全国的に放送されている場で、しかもニューヨークで行われている授賞式で、ニューヨークを代表するプロデューサーを小馬鹿にしたのである

こう文章で書くとしょうもないことに聞こえるかもしれないが、当時の両海岸のギスギスしたマイナスの感情が一般的にも広まってしまった瞬間であった。

最後の銃撃事件

時は1996年9月7日。2PACはラスベガスで、ボクシングのマイク・タイソン戦を観戦した。試合の結果はタイソンが勝利をおさめ、2PACはマリオン・シュグ・ナイトとBM750に乗用し、タイソンの祝勝会へと向かった。途中、信号待ちをしていたとき、隣に白いキャデッラクが止まった。すると、突然、窓から銃弾が何発も打ち込まれた。2PACは、すぐさま後部座席に非難しようとしたが手遅れだった。体中に銃弾を浴びせられ、病院へ運ばれたが、6日後に帰らぬ人となった。2PACの死後、母親のアフェ二・シャクールは、2PACの報酬が少ないこと知り、デス・ロウを訴えた。その結果、150巻のテープを獲得し、97年にジャイブ系列のレーベルを設立する。そして、2PACの数多くの未発表曲をリリースしていく。

90’sHIPHOPものすごいですね!自分もアイコンにしているほど2pacが大好きです。彼が今生きていれば、ものすごいラッパーになっているかもしれませんね。ちなみにこの抗争の真実はまだ謎だそうです。いまはストリートファッションやJPOPもめちゃくちゃ盛り上がっていますが、こういった本場のHIPHOPを知ることによって、さらにたくさんの楽しみ方ができますね!!!!

本日も遊びに来てくれてありがとうございました。またバモスグーのブログに遊びに来てねー